世の中、「セクハラ」や「モラハラ」、「パワハラ」といった事案が多くなってきた。
多いといっても、実際は物事は度合いであるから、昔と件数自体は変わらないのかもしれない。
なんとなく許されていた、あるいは、泣き寝入りされていた事案が可視化されたことが大きいのだろう。そういった可視化は大いに歓迎されることであるし、声を上げた被害者はしっかりと保護されるべきだ。
私がこれから述べることは、この保護がしっかり為された上での話である。被害者であること自体を否定するものではないことを書いておきたい。
いつでも被害者になれてしまう
各種のハラスメントは「受け手が嫌がらせを受けたと思うか」がほぼすべてであり、受け手が決めてよいことだ。暴論として言ってしまえば「被害者であること」を選べる。
血液型話題がイヤな人にとってはブラッドタイプハラスメントだし、いい歳なんだから結婚しろはマリッジハラスメントだし、上司との関係がよくなければパワーハラスメント、性的な嫌がらせがあればセクシャルハラスメントだ。
これらはハラスメントである事実に疑いがなく、間違いなく被害者である。
ただ、ふと俯瞰してみると、これらのハラスメントが存在しない箇所は少ない。どこの場にも、何らかのハラスメントは存在しうる。
どこにでも存在しうることでは、もちろんハラスメントは肯定されるものではない。
ここにはある種のパラドックスがあるが、ハラスメントは肯定されるものではなく、被害者は保護されるべきではあるが、被害者は被害者であることに慣れてはいけない。
そこかしこにハラスメントがあるということは、被害者であること自体は特別ではないということだ。
受けた被害はとてもつらいものであろうけれども、自分以外のみんなも何らかのハラスメントを受けたことがあるのだということで、それはどちらが厳しいか量的な評価はできないし、あまり意味がない(質的評価)。
被害者であることを受け入れつつ前に進む
ハラスメントの被害者にはなりやすい。そこから脱するためには何をするべきか。
そこにある人間関係をどのように再構築するのか。あるいは転職などで環境を変えるのか。そういった周りのサポートや自身の選択が必要になる。
注意しないといけないのは、それらサポートに依存してしまうことだ。サポートはある種の野戦病院であって、恒常的にサポートを続けるようなものではない。(かといって、短期間のサポートを意味せず長期間のサポートが必要になることも多い。)
サポートをどこまで続けるかは見極めが難しい。
同時に加害者にもなっている可能性
ハラスメントがまた次のハラスメントを産むこともある。
例えば、結婚相手からハラスメントを受けているという内容は、結婚に憧れている人から見たら、結婚している時点で恵まれているから、惚気に聞こえてしまうかもしれない。
例えば、大学院に潜むハラスメントがあるという内容は、進学を望んでいた高卒の人にとっては悲劇のヒロインに映ってしまうかもしれない。
ハラスメントに対する過剰な反応をしてしまうと、それは別の誰かのハラスメントになってしまうかもしれない。
Photo credit: Renegade98 on Visualhunt / CC BY-SA
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