モヤモヤと色々考えていて、ひとまず納得のいったことをブログ記事としてまとめておこうシリーズ。
第一回は「入口」と「出口」について考えてみたい。
ある製品・サービスをデザインする、と考えたときに多くの場合はユーザーにとってのゴール(目標)を仮定し、そこに導くためのデザインを考えている。しかし、そこには「入口まで」と「出口まで」の大きく2種の考え方がある、と最近考えるようになった。それを考えるキッカケは、3月頃にアクセシビリティに携わる方々とお会いする機会があり、その方々の考えの一旦に触れて、自分との考え方の違いを知ったからだった。
自分はエンジニアという立場から「人間中心デザイン(HCD)」にどっぷり浸かってきた。基本的な考え方は、「あるユーザーを想定し、システムとの関わり、Context(利用状況)を捉えてデザインすること」を重視するものだと考えている。主にユーザビリティを大事にしてきた方々で練られ、最近はユーザエクスペリエンス(UX)に応用できるとして注目されている。特に「あるユーザー」を特に考えて重要視する視点であるが、これと同じように考えて、アクセシビリティの会で「どういった方を想定しているのか?」と問いをなげても、ある特定のユーザーを想定しているという答えは返ってこなかった。「誰もが対象者」なのだ。HCDとして考えるでもなく、システム開発において、特にリーンスタートアップ(≠リーン開発)やMVP(Most Viable Product)を念頭に開発する者にとって、「誰のためでもある」ものは「誰のためでもない」というのが通説となりつつある中で、この「誰もが対象者」は悪にすらなる。ではそれらを否定するかというと、そうする気は起こらなかった。アクセシビリティに携わる方々は、身近に障がい者が居て、関わっている人が多い。(おそらく、ファミリア、と呼ぶのだろうか)そういった強烈な体験を持ちつつも、その人向けのデザインではなく、「誰のためでもある」デザインを志して活動しているのは、何か意味があるはずだし、きっとHCDとは何か違うものがコアになっているのだ。そう考えて、一旦モヤモヤを押し込めた。
では、何が違うのだろうか。アクセシビリティとユーザビリティそれぞれ、ISOで規格化されるほど、浸透を試みている考え方であり、今年7月、hcdvalueで開催した「ISO9241-210読書会番外編 アクセシビリティ特集」で自分が抱えているモヤモヤを仮説とともにぶつけてみた。そこである程度の共感を得た考え方が「入口まで」と「出口まで」のデザインに分けることだった。
すなわち、あるユーザーの目標とその目標までのルートがあるとイメージした時、そのルートの入口まで届けるのが「アクセシビリティ」で、入口から出口まで届けるのが「ユーザビリティ」になるという考え方だ。この考え方は、とある方の「極論すると、そこに情報があるということ分かりさえすればよい。読めなければ、周りの人がその情報を読み上げればよい。」という発言から自分なりに紐解いたものだ。(なので、実はあまり自信がない)
まとめると、アクセシビリティとは「(あるユーザーが)その情報があるであろうルートの入口を見つけること」であると考えられないだろうか。
この場合、ユーザーは特定できない。誰かがアクセスしやすい、といった視点ではなく、あらゆるユーザーがまず情報の入口に立てなければならない、というスタンスであるからだ。
この考え方を進めると、ユーザビリティは「入口に立ったあるユーザーが、効率的に、正しくゴール(目標)=出口に到達できること」と考えることができる。(ややこしいので、一旦いわゆるビッグユーザビリティに入るであろう「満足度」は除外する)この場合、入口に立ったユーザーは、その先に自分の目標とする情報であるかを取捨選択できる。例えば、自分がコスメに何も興味がない状態でコスメ情報サイトを表示した場合、そこには自分が求める情報がないことは分かる。したがって、出口に到達してもらうようデザインするためには「ある特定のユーザー」を想定することが可能だと思われる。
こうまとめると、アクセシビリティとユーザビリティは、あるユーザーに何かを届けたいとする場合には両輪であると考えるのが妥当なのではなだろうか。シンプルに言ってしまえば、「あらゆるユーザー」の視点でアクセシビリティを考えて入口に立ってもらい、「届けたいある特定のユーザー」の視点でユーザビリティを考えることで出口に向かってもらう、ということが自然と見えてくる。
しかしこれは概念としての大枠の話であって、具体的な話をする場合には、例外だらけとなってしまう。
例えば、官公庁のようなwebサイトを考えれば、情報にアクセスし情報を閲覧すること、それ自体がゴールとなる。つまり、アクセシビリティはユーザビリティを包含する形と言えてしまう。別の例として、ある業務アプリを考えると、そこにアクセスできることがゴールではない。日々の業務の中で発生するタスクを間違いなく達成できること、それがゴールであるはず。この場合、ユーザービリティの中にアクセシビリティが包含されてしまう。これは、どちらが良いとかではなく、状況によってどちらかの色が強く出る、ということだと思っている。
その両面性が「ユーザエクスペリエンス」という語の曖昧性に加担しているように思う。アクセシビリティや(スモール)ユーザービリティが情報やモノがアクセシブルであること、ユーザブルであるという「モノ(情報)」の特性を表しているのに対して、ユーザエクスペリエンスは使うヒト、そこで為される「コト」の重要性に観点をシフトしている。つまり、ある体験の良し悪しにシフトしているので、そのモノがアクセシブルかユーザブルか、といった観点はひとまず取り払われてしまっている。
体験としての「価値」と、モノとしての「価値」はまた別なので、そこを混同してしまうからシステム開発は難しいのだろうなぁ、と感じたりしている昨今。脱線したので、ここまでにしたいと思います。
今回は、ただ私のモヤモヤする仮説をまとめただけに過ぎない。今後少なくとも1年間は、その議論が入口なのか、出口なのかを意識して、上記のような仮説が成り立つのかを考えてみたい。
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