某所で某人とチャットしてたらブログ書けと言われたので書きます。
今回は、私自身が勉強したことから、人のためになるということはどんなことだろう、ということについて、たまに考えていることをdumpした記事です。
とある講義
2007年に遡ります。本当は卒業しているはずだった時、単位未取得で半年留年していました。留年自体は精神的に(自分勝手に)追い込んでしまったためで、恥ずかしい過去なんですが、そこで受けた講義がとても印象に残っていて、そういう意味では出会えてよかったというか、感謝しています。その講義の話をしたいと思います。
その授業は「生命倫理」という授業でした。
簡単なまとめPDFを発見したので、リンクをはっておきます。
http://www.apph.tohoku.ac.jp/press/0910kajitani.pdf
オムニバス形式で講師が毎回変わって進められていたのですが、その中でも「施設見学」と「脳科学と生命倫理」の2つが今でも心に残っています。
施設見学
最も印象に残っているのが、筋ジストロフィーの治療で有名な西多賀病院を見学させていただいたことです。見学時に説明していただいた内容(病院も経営、つまり利益確保を求められるようになったことで病床数や入院日数に影響していること、筋ジストロフィーの進行具合によって段階的に補助する器具をリハビリに使用していること、介護する方を支えるコミュニティetc.)もとても衝撃的だったのですが、一番印象に残っているのは、引率していただいた先生の何気ないコメントでした。
その先生は制御工学が専門で、とある時に自分が培ってきた技術が医療の方面で役立てられないか、と病院を見学したことがあったそうです。その時、患者さんに「何が欲しいですか?」と何気なくインタビューしたそうです。先生としては、自動で起き上がれるベッドだったり、食事をサポートする機械などを期待して聞いたと思われるのですが、帰ってきた答えは「鏡が欲しい」だったそうです。
聞いていくとその患者さんは首や体を動かせないため、いつも同じ風景(おそらく真っ白で殺風景な病院の壁など)を見ていて、ちょっとでも気分を変えるために違う風景を見たい、そのために鏡が欲しいという話だったそうです。
「工学の研究」というある意味「ハイテクノロジーで社会をよりよくしようぜ!」というアプローチと思っていたので、かなり衝撃的でした。
「鏡というある種ローテクでコモディティ化したものであっても、その使い方を考えることで、誰かのためになる。」ということは常に心に留めておきたいなぁと思っています。なお、その3年後からHCD(人間中心デザイン)という考え方に出会って共感して、現在学びを続けている状態です。
脳科学と生命倫理
有名な某脳科学の先生を講師とした授業でした。
先生が話されていたことは2つと認識していて「学術界と一般の間の葛藤」「脳科学が進んだ後の話」というものでした。
学術界と一般の間の葛藤
某先生は得られている知見がどういう状態にあるのがベストなのか決めかねているというお話をされていました。某ソフトの監修をしていて、一般の人にメッセージを伝えるためには、メッセージをかなり絞らないといけないということでとても短いフレーズをつけることにしたそうです。当然誤解を産むこともあり、学術界を含め、「誤解を広める」「金の亡者になったのか」などの批判も受けたそうです。(ちなみのその先生は得たお金で研究棟を建てて学術の発展に貢献されています
その批判の一つに、「学術界で権威を認められればいいんだ」というものがあり、その点を考えて欲しいというメッセージでした。それが正しいとか正しくないとかではなく、何故学術界に閉じるのか、一般に広めた方がいいのかをちゃんと考えよう、というお話だったと記憶しています。
脳科学が進んだ後の話
今後脳科学が発展したら、という話で、今はヘッドギアみたいなものをつけてもこの程度のことしか分からないけれども、将来は非接触で色んなことが分かるかもしれない、という話をされていました。そうすると、もしかすると思考をコントロールすることもできてしまうかもしれない。
その時に大事になるのは「脳科学者」としての倫理だ、という話で、これがとても残っています。
まとめ
とある授業のことをたまにふと思い出して、あの頃との距離を考える昨今です。
私は一介のソフトウェア技術者ですが、だんだんできることが増えてきている実感はあって、そのたびに「倫理」は大事になるなぁと考えてしまいます。倫理単体でご飯は食べれないわけですが。誰のためのデザイン?というわけではないですが、技術ベースで考えがちな昨今、自分はちゃんと人に向きあえているのかと自分に聞いてみています。