私は友人に「アイドル詳しくないんですけど」と冗談めかして言って、アイドルについて語ってしまったりする。
アイドルの全体像を語るのは難しい。私なりに考えていることを書いてみる。

アイドルとは何なのか。
Wikipediaでも「成長過程をファンと共有し、存在そのものの魅力で活躍する人物」とされている。
これを①成長過程をファンと共有する、②存在そのものの魅力で活躍する、という2条件と見て、以下を考える。

①成長過程をファンと共有する

これは、「アイドルは未完成である」とするタイプのものだ。

これを未完成のものを商品とするのはおかしいと否定されることも多いが、フィギュアスケートのオリンピック参加資格のように、プロの参加が禁止されているが成り立っている事柄も多い。とは言っても、アイドル認定機関のようなものはないため、演者が万年アマチュアとしてアイドルであり続けることも、心機一転プロであるように振る舞うことも可能になっている。

おニャン子クラブ、モーニング娘。以降強まっている流れである。しかし、その発端は「スター誕生!」の番組にあると思う。近年、お宝映像というように出されるものの類であるこれらの番組は、アイドルになりたいという気持ちを持ったアマチュアの集まりから目利きが原石を見つける、その過程を映したものだ。本来裏方でやられるオーディションを、テレビ番組という枠でやった。そのことで成長過程をファン予備軍に見せることになった。

プロ野球だけでなく、夏の高校野球を楽しむ人が多いように、アマチュアの表現を楽しむというのは、日本の国民性なのかもしれない。プロの妙技だけを期待するのであれば、その人は高校野球を見ることはないだろう。(見るとすれば、化物のようなスーパースターがいると聞きつけた時だろう。)我々には、プロの妙技だけでなく、ひたむきさとか、力いっぱいのプレーといったことを期待する気持ちがどこかにある。

成長過程をファンと共有するといったものは、上記のような気持ちによって生まれたものだと考える。

おニャン子クラブは、「素人の女子大生」というストーリーから始まった。モーニング娘。は、「アーティストオーディションに落ちたアイドルのタマゴ」というストーリーから始まった。AKB48は、「(テレビの中の会えない誰かではなく、劇場に行けば)会いに行けるアイドル」というストーリーから始まった。

年代を追うごとに、アイドルへのファンの関与度は高まっている。(元々スター性がある→テレビの中の素人→自分が応援しないとデビューできないかもしれないアイドル→テレビから劇場に出てきたアイドル)それがいいことか悪いことかはわからないが、「成長過程をファンと共有する」という文脈において、受け継がれてきたフォーマットである。

その過程では「テレビ」というフォーマットがあったことは欠かせない要素だったと思う。音声だけの「ラジオ」では、圧倒的なトーク力や歌唱力のどちらかを持っていなければ、アイドルとしてのストーリーを感じにくかったのではないか。

一方で、アイドル側にも『自分、本物になりたい』という葛藤が生まれる。それは、乃木坂46を卒業した生駒里奈の発言にも見られるものだ。

②存在そのものの魅力で活躍する

80年代のアイドルを好きな人と話してぶつかるのが、この「存在そのものの魅力」のタイプのみをアイドルと規定する人がいる点だと思う。

なるほど、確かに唯一無二の魅力がそのアイドルにあるならば、毎年のようにメンバーが入れ替わることもないし、総選挙などでファンが投票してメンバーを選抜するなどということはおこがましいだろう。これは、先に述べた「アマチュアの表現を楽しむ」ことができるかどうかだと思う。
普段日本で生活してると意識する人は、海外とのやりとりを主にしていなければない。それでも「日本代表」を応援する。あるいは、高校野球では、自分の出身高校ではないところも、「都道府県代表」として応援する。そういった何か類似点を見つけて応援する、というのが一つの共有のフォーマットになっている。

「存在そのものの魅力」を推す人は、そういった「共有」を遠ざけているとすらいえる。大胆に言えば「神格化」を基本とするスタイルで、私の力で神の運命を左右するなどおこがましいし、ちっぽけな自分の能力を暴力的に否定してほしい(圧倒的な可愛さや歌唱力であってほしい)という姿勢なのだと思う。

広末涼子のように小さい顔(かつパーツが大きい顔)にはなれない。だから憧れを持ってファンになる。その他、圧倒的な歌唱力、圧倒的なパフォーマンス力があって、自分には真似できない。だから憧れを持ってファンになる。そういったものが「②存在そのものの魅力で活躍する」になると思う。

偶像・虚像、あるいは実像

アイドルはその語源を辿るまでもなく、偶像だった。ある種、選ばれた者しかなれないシンボルだった。

それが、いつしか虚像になった。テレビというハコができて、その中と外に分かれた。ある意味「テレビの中という虚構の世界」を作り上げたことで、その中だけで夢を見せることができた。ライブもテレビの延長だったのかもしれない。

時が流れて、アイドルは実像を持つようになった。会いに行けると言うアイドルグループも出てきて、他にも握手会という文化ができて、舞台裏のDVDが発売されることも増え、数秒だけでもその人やその人の生の声に触れることができるようになった。

アイドルは如何にあるべきか。
それはまた移ろいやすいものだが、価値観が多様化している今は、偶像はつくりにくいのかもしれない。それはある種、クラスの人気No1から相手が決まっていくカーストを肯定することにも近しい。クラスの人気No5でもアイドルとして許される実像としてのアイドルの方が、もしかすると広まるのかもしれない。

ただ、近年は握手会での事件も多発している。アイドルが実像としてファンと共有するということは、危険が伴うことがわかってきてしまっている。そこにもまた、限界がある。

揺り戻しとしての偶像に期待するべきなのか、それとも、実像としてのアイドルを支える仕組みをファンもつくりあげるのか、もう少し先を考えてみたい。

アイドルに対する気持ちは、こういった近くに居てほしいけど遠くに居てほしいという、アンビバレントな気持ちに左右されているのだと思う。

BGM:欅坂46「アンビバレント」





※参考資料
https://www.sankei.com/entertainments/news/140705/ent1407050004-n1.html
https://www.sankei.com/life/news/140712/lif1407120020-n1.html
https://www.sankei.com/entertainments/news/140719/ent1407190003-n1.html
https://www.sankei.com/entertainments/news/140726/ent1407260005-n1.html